Je descends un rideau




 工藤新一は忘れていた。探偵ともあろう者がどうしてまた、と自分でも思うのだが。
 理由の一つは隣家の阿笠邸にいる哀に、快斗は組織とは関係ない存在だと、そして解毒薬を作るための協力者なのだと、だから余計な口を出したり調べようとしたりするなと口をすっぱくして言われていたこと。もう一つは、解毒剤が完成し“黒の組織”の壊滅に追われていたことが上げられる。
 それにしても、解毒剤が完成し、コナンから工藤新一の姿に戻った時にも会っていたにもかかわらず、“黒の組織”の件にかかりっきりになった後は一度も会っていなかったとはいえ、すっかり忘れていたなんてどうだよ、と自分に突っ込みを入れたくなるのは致し方ない。



 5月の末、哀が口にした。解毒剤を飲むと。
 当初、学年が変わる時に飲んで“灰原哀”という存在を消す、と言っていたのにもかかわらず、一向に薬を服用しないままにいる哀に、気が変わって、もしかしたら“黒の組織”にいたシェリーこと宮野志保という存在を消して、このまま灰原哀としての人生を送っていくのかと思っていた。
 それが突然、意を決したかのように解毒剤を服用すると言う。その理由を尋ねに、改めて新一は阿笠邸を訪れた。
「灰原、一体どういう心境の変化なんだ?」
 そう尋ねる新一に、どうということもないと平然と哀は答えた。
「だって、逃げていたNo.2が捕まって“黒の組織”は完全に壊滅したじゃない。だからよ」
「……おまえ、No.2が逃げてたこと知ってたのか?」
 新一は座っていたソファから腰を上げて目の前の哀に問い返した。
「もちろんよ。快斗君から聞いてたから。じゃなかったら、とっくに薬を飲んでたわ」
 哀の答えを聞いて、新一は改めてソファに腰を降ろして座りなおした。
「いまさら改めて聞くのもなんだが、黒羽快斗って一体何者なんだよ」
「貴方のお父様の友人の息子さんで、彼のお父様が亡くなった後、中学に入るまではアメリカに在住。その間にMITをスキップして卒業。確か何かの博士号も取ってたんじゃなかったかしら。中学からは日本に戻って、普通の学生生活。将来目指してるのは彼のお父様と同じマジシャン。そんなところかしら」
「そんな奴がどうしてICPOと関係なんてあるんだ?」
「それは彼の事情。私が関与するところではないわ。もちろん貴方もね」
 そういう言い方をする哀からこれ以上聞き出すのは無理だと、新一は経験上知っている。そしてまた、快斗も尋ねても答えはしないだろうことも。
「とにかく今月一杯で灰原哀は消えるわ。灰原哀という偽りの生に幕を下ろして、元の宮野志保に戻る」
「その後はどうするんだ?」
「FBIの方は、快斗君を通してICPOから話を付けてもらってるの。だからシェリーも必然的にもう存在しないのよ。幸い博士がこのままここにいればいいと言ってくれているからそうするわ。今までお世話になった分、恩返しもしなきゃ、だし」
 そこまでICPOに話を付けられる黒羽快斗って、本当に一体何者だよ、という問いが頭の中で大きくなっていく。答えは得られないと知りながら。
「博士に恩返しって、これまで通りカロリー摂取とかに口出ししていくってことじゃないのか?」
 自分でも何を言っているのやらと思いながら、これまでの哀の行動を振り返って口にした。
「そうとも言うわね。とにかく、繰り返すようだけど灰原哀は消えるの。そしてもう一度、宮野志保としての新しい人生の幕を開けるわ。元に戻った私を今までのように“灰原”なんて呼ばないでね」
 哀は最後まで注意を忘れなかった。もっとも、注意をしても新一のことだから自分を“灰原”と呼びそうだと思うのだが。
「そういうことで、改めてこれからもお隣としてよろしくね、工藤君」
 そう言って阿笠邸から追い返された新一は、その一方でこれで少年探偵団との縁はますます薄くなっていって、彼等が危険なことに遭遇する機会は減るだろうと思った。現にコナンが消えたことで、探偵団としての彼等は事件に遭遇する機会は減っている。
 ともかくも黒羽快斗が何者であれ、自分も、哀、いや、志保も、人生をやり直していくのだと改めて感慨に耽った。

── Fine




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