灰原哀、7歳。
幼いながらも、可愛いと言うよりは、綺麗と言った方が似つかわしい容貌であると言える。
そして赤みがかった茶色の髪と榛色の瞳は、哀が純粋な日本人ではなく、異国の血が混じっていることを雄弁に物語っている。
そんな哀の顔には、今、疲れが見てとれる。また、その瞳には明らかに、焦燥と呼べるものが伺える。いずれも哀のような年頃の子供の持つものではない。
7歳というのは単に外見上のことだけであり、哀の本当の年齢は18歳である。
かつて哀は“黒の組織”と呼ばれる国際犯罪組織の研究施設に属する科学者だった。それが組織の擁する殺し屋の手に掛かって唯一人の姉が殺されたのを切欠に組織を抜け出したのだ。その際に死ぬ覚悟で服用した薬、APTX4869の影響により、哀には死ではなく、10歳近い若返りという作用が働いた。その結果が現在の哀の姿なのである。
哀は既に日付が変わって数時間を経て、漸く2階にある自室へと向かった。
いくら翌日が休日とはいえ、小学校1年生という子供である哀が起きているような時間ではない。実際、普段ならばとうに眠っている時間である。それが今夜、こうして夜更かしをしているのは単に現在の哀の保護者である阿笠が留守をしているからに他ならない。
哀の本音を言えば、もう少し起きているつもりだった。もう少し、いや、もっと研究を進めたかった。だが実年齢はともかく、現在の子供の躰がそれを許さないのだ。
哀が服用したAPTX4869は、元々哀自身が作り出したものだ。それを組織は毒薬として暗殺の際に使っている。
ところが一体どういう作用によるものなのか、それは哀にも分からないが、ごく一部で若返りという結果を齎した。
前例はあった。組織も知らないことではあるが、一人の高校生に飲ませたところ、その高校生は死ぬことはなく、子供の躰に若返ったのだ。そして哀がその2例目となった。
現在の哀は、子供の躰となってしまった哀を見つけて引き取ってくれた阿笠博士の家で、その身体的年齢の子供に相応しく小学校に通いながら、元の躰に戻るための薬を、つまりAPTX4869の解毒剤の研究をしている。
しかし、現実には研究は遅々として進まない。
その原因は過ぎる程に分かっている。絶対的に情報が足りないのだ。
薬のデータもサンプルも無い。あるのはただ、とても完全とは言い切れない哀自身の記憶だけなのだ。後は1例目の高校生である工藤新一と、自分自身の躰。
自分は構わないと哀は思う。自分の現在の状況を作り出したのは、いわば自業自得だから。
だが工藤新一は違う。彼がその薬を飲まされた経緯はさておき、薬の製作者としての責任がある。だから早く解毒剤を完成させて、彼を元の躰に戻さなければならないと思うのだ。
しかしそう思えば思う程、一向に進まぬ研究に焦りが増し、疲れが増す。
どんなに願ってもどうなるものでもないと、分かっていても思ってしまう。データが有れば、サンプルが有ればと。全てとは言わない、一部でもいいから何かと。
そんなふうに研究に関してはこれといった進展も無いままに同じことを繰り返す日々が続いている。
この夜もまた、同じように地下の研究室に詰めていたのだが、これ以上続けても効率が悪くなるだけと、そう自分に言い聞かせて哀は自室へと向かった。
ドアを開けて中に入り、照明のスイッチを入れようとして哀は気が付いた。頬を撫ぜていった微かな風に。
しかしそんなはずはない。確かに帰宅した後、窓を開けはした。だが地下に降りる前にしっかりと締めたのだ。それは間違いない。この家の主である阿笠がいない今夜、常にも増して戸締りには気を付けていた。だから閉め切った部屋で風を感じることなどあるはずがない。
哀はゆっくりと風が入って来た窓の有る方に顔を向けた。
窓が開いていた。微風にあおられて、カーテンが僅かに揺れている。
そして月の光を背に受けて、ベランダの狭い手すりの上に危なげもなく佇む人影。
哀は思わず後ずさったが、たった半歩で閉めたばかりのドアに背をぶつけた。
人がいる気配は全く無い。間違いなく視線の先には人が立っているのに、何も感じ取れない。
かつては犯罪組織にも属していた哀は、人の気配には敏感だ。特に組織の者の放つ気には。例えそれが殺気と呼ばれる程のものでなかったとしても。組織を抜けて以来、その気配は哀に恐れを生む。自分が組織の裏切り者だと知れたら殺されるのが分かっていたから。
しかし、目に見えない殺気よりも、目に見えながら何も感じられないということの方が遥かに恐ろしいのだということを、哀はこの時、はじめて知った。
得体の知れない者の齎す、根源的な恐怖。
ここまでその気配を完全に殺しきる存在に、畏怖すらする。
だが、それが『彼』ならばさもありなん。
まだ照明を付ける前の暗い部屋、明かりは差し込む月の光しかない。しかもその逆光で何も見えないが、月を背にして浮かびあがるその特徴的なシルエットが、彼が何者かを示している。
月下の奇術師、平成のアルセーヌ・ルパン、神出鬼没の怪盗紳士、確保不能の大怪盗── 。幾つもの通り名を持つ国際指名手配犯、怪盗1412号。
シルクハット、スーツ、マント、靴に手袋まで、夜を翔ける犯罪者には有り得ない純白で統一し、古風なクローバーの飾りのついた銀の片眼鏡をつけ、大胆不敵にもいつも予告状を送りつけ、警察を子供のように手玉にとりながらまるで一つのショーのように大胆かつ華麗な手口で盗みを成し遂げる天才的犯罪者。通称、怪盗KID。
その怪盗が、なぜ故こんなところにいるのか。
そんな予告は出ていないし、第一、この阿笠邸に怪盗が狙うような宝石はない。
ふと、哀の脳裏を一つの考えが過る。
もしかしたらこの怪盗は組織と繋がりがあるのではないかと。
怪盗KIDは盗みはしても決して人を傷つけない、人を殺さない。しかも盗んだものをすぐ返却する。まるで盗むことを愉しんでいるだけの愉快犯のように。その手口には組織とは通じるところなどまるでない。
けれど結局はこの怪盗も裏社会の、闇の世界の住人であることに変わりはないのだ。たとえ直接の関係はなくとも、闇に属するもの同士、組織と何がしかの繋がりがある可能性は、全く否定できるものではないのだ。
怪盗は組織の人間に頼まれて、組織の裏切り者である自分を探し出し、ここに辿り着いたのかもしれない。
── だとしたら、私は、殺される?
そんな考えが哀の脳裏を占める。躰が震え出して、それを止めることができない。その一方で、自分をそんな状態に導いた影から、視線を外すこともできない。
影が動いた。音も立てずにベランダに降り立つ。怪盗はゆっくりと部屋の中に足を踏み入れた。
背中を冷や汗が流れ落ちていくのを哀は感じた。
手を伸ばせば哀の躰にその手が届くところまで進んで、怪盗は足を止めた。途端、消していた気配を解放したのだろうか、とても犯罪者とは思えない、どこまでも清涼な気配が部屋を満たしてゆく。
「このような時間に突然伺って驚かせてしまったこと、お詫びします。けれど、どうしても貴女にお会いしたかった。直接会って、確かめたかったんです」
── 確かめる? 何を? 私が組織の裏切り者だということを?
右手を胸に当ててシルクハットを乗せた頭を軽く下げながら告げる怪盗に、彼を見上げながら、哀は心の中でそう問い掛けていた。
いつの間にか握りこんだ両の拳が、腕が、小刻みに震えるのを止められず、ただ、目の前に立つ怪盗から視線を逸らすことも叶わぬまま、じっと見上げるしかできなかった。
ふいに怪盗が右腕を上げた。
哀は思わず身構えたが、怪盗はその哀の表情を見降ろしながら、手袋に包まれたままの指を1回だけ鳴らした。
するとそれを合図にしたかのように、室内が一気に明るくなった。
哀が点けようとして、結局点けられていなかった照明が点いたのだ。
予想もしていなかった突然のことに、哀は目をしばたかせた。数回瞬きを繰り返してから視線を上げた時、今度こそ、本当に触れるほどに近いところに、床に膝を付いて視線の高さを哀に合わせた怪盗の顔があった。
息を呑む哀に、怪盗はゆっくりと唇を開いた。
「私が、分かりませんか?」
柔らかな、耳に心地よいテノールで怪盗は哀に問うた。
閉めたドアに背を預けながら、その問い掛けに答えることもできずに眉を顰める哀に、怪盗はゆっくりとシルクハットに手を掛けた。
柔らかな癖毛が、押さえるものを失って跳ねている。
そしてまた、光の下、目の前にあってもなお、シルクハットの鍔が作り出す影ではっきりとは見えなかった怪盗の貌がはっきりと見て取れた。
若い。
最初に怪盗が出現したのはフランスの首都パリ。18年以上も前の話だ。その時の怪盗と現在の怪盗が同一人物であるならば、どんなに若くとも40歳近い年齢のはず。しかし哀の前にいる怪盗はとてもそんな年齢には見えない。
以前、工藤新一が言っていたことを哀は思い出した。
今の怪盗KIDは、2代目なのではないか── と。
「覚えていない?」
怪盗の放つ気配が、また少し変わった。柔らかなものへと。
「それとももう俺のことなんて……」
言いながら、怪盗の手が片眼鏡にかかる。
「忘れてしまった? 志保さん」
閉じられた瞳が片眼鏡を外した後、再びゆっくりと開かれていく。
そこに現れたのは、宇宙の深淵を思わせる、漆黒に磨き上げられた煌く黒耀石が二つ。
呼ばれた名と、それ以上に、記憶の中にある面ざしと懐かしい瞳の色に、哀は目を見開いた。
「あ、貴方は……」
哀のその反応に、怪盗は綺麗な微笑を浮かべた。
── Fine
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