Je parle tendrement de mon chéri




 阿笠邸のインターフォンが鳴らされた。インターフォンを押すと言う行為をするということは、少なくとも隣家の住人ではないことは間違いない。隣家の住人は他人の家であるにもかかわらず、この家をすっかり自宅のつもりでいるようで、インターフォンを押すということを何度言ってもしないから。
 最近、宮野志保に戻ってからは、かつて少年探偵団としてよく一緒に行動していた子供たちも、ここへ来る機会はぐっと減っている。
 それに反比例するかのように増えているのが、快斗の訪問だ。それに加えて、最近では快斗と付き合っている白馬探の来訪も増えている。
 ああ、そう言えば、白馬は阿笠の養女となった自分を、未だに「宮野さん」と呼んでくる。注意しておかなければならないだろうかと思いながら、志保は玄関に向かった。
 扉を開ければ、そこに立っていたのは大きな、おそらくはケーキと思われる箱を持った快斗だった。
「いらっしゃい、快斗君。今日は予定はなかったと思ったけど、記憶違いだったかしら?」
 快斗は来訪の前には大抵連絡を入れてくる。必ずしも、ではないけれど。
「あー、ごめん、志保さん。予定が急に空いちゃって、それで志保さんいるかなーと思って」
「いなかったらどうするつもりだったの? まあ、いいわ。上がって、お茶を淹れるから」
「お邪魔しまーす」
 そう言って、快斗は勝手知ったる阿笠邸に上がった。
 キッチンで志保が自分で言ったとおりお茶の用意をしている間、快斗は持って来た箱を開け、中身を吟味している。
 ちょうどお湯を沸かしているところだったのだろうか、それ程せずに志保は紅茶の入ったカップをトレイに乗せて居間に入ってきた。
「どうしたの、それ?」
 快斗のと自分の前にカップを置きながら問い掛ける。
 それ、とは箱の中身だ。やはり志保が思った通りにケーキだった。幾種類ものケーキが隙間なく箱を埋め尽くしている。
「いや、ホントは今日は白馬と映画にいくはずだったんだけどさ、白馬が急に用事が入って遅れるからって、代わりに待ち合わせの場所に白馬のばあやさんがこれ持ってきたんだ」
 志保は大きな溜息を吐き出した。
「予定がキャンセルになったんじゃなくて、あくまで、遅れるお詫び、なのね、これ?」
「そっ。映画見た後は、夕食一緒に摂る約束してたからさ。夕食までには片付けるからそれまで待っててくれって言われて」
「それで貴方は自宅にも戻らず私のところへ来たわけ?」
「だって、一人で食うのは寂しいじゃん。母さん、昨日から旅行に出てていないんだよね」
「で、私が選ばれたというわけね」
「そ。志保さんなら白馬も心配することないし」
 志保は疲れたように本日二度目の溜息を吐き出した。
「どうかした? もしかしてどこか具合が悪いとか?」
「いいえ、そうじゃないわ。ちょっと疲れただけ」
「なら、横になってる? 俺、構わないよ。むしろ疲れた志保さん起こしてたら悪いもん」
「いいえ、そういう意味の疲れじゃないから大丈夫よ」
「?」
 快斗はわけが分からぬというように小首を傾げた。
「白馬君、話には聞いていたけど、本当に貴方を甘やかしてるのね」
「俺を? 白馬が? そうかなー」
 選んだケーキの一つに口をつけながら快斗はまた首を傾げた。
「そりゃ出会った頃の、俺を「KIDでしょう」って追っ掛けまわしてた頃に比べたら甘いと思うけど」
「十分甘いわよ。約束の時間に遅れるだけでこれだけ貴方の好きなケーキを用意させるなんて。それに彼、どっかの誰かさんと違って外面だけじゃなくて中身までしっかりした紳士のようだし」
「あ、それはいえてる。育ちが英国だからかな、これぞ英国紳士、って感じる時あるよな」
「甘いだけじゃなくてしっかり優しいし、でも言うべきところは言うわよね、彼って」
 志保のその言葉に、思わず快斗は眉を顰め皺を寄せた。
「そうなんだよなー。アレのことさえ言わないでくれりゃ申し分ない相手なんだよな」
「彼がアレのことを言うのも、貴方のことを心配しているからでしょう? 何とも思ってなければ何も言わないか、さもなければからかいの種にしてるわよ」
「うーん」思わず快斗は唸った。「志保さんの言うこと、分からないじゃないけど、アレだけはどうしたって駄目だ、他の物は許せてもアレだけは絶対駄目!」
 力説する快斗に、志保は三度目の溜息を吐く。
「ホントに、なんでそこまで駄目なのかしらね? 一度専門家に診て貰ったら?」
 気が付けば三個目のケーキに手をつけている快斗は、食べる手を止めて、上目遣いに志保に尋ねた。
「やっぱり、その方がいいと思う、志保さん?」
「ええ。だって余りにも異常だもの。彼が心配するのも分かるし、私も心配だわ」
「けど、なんでアレが駄目になったのか、それも記憶にないんだよなー、この俺が」
 流石計測不能のIQを誇るだけあってか、快斗には物心ついた頃からの記憶が全てある。その気になれば10年前の今日、昼に何を食べたかも簡単に思い出せるだろう。
「だったらなおさら、一度専門家に診て貰うべきだわ。その結果、少なくとも原因が分かれば、見るのくらいは大丈夫になるかもしれないじゃない。そうすれば街を歩いていても心配する要因が減るのはいいことよ」
「……親父が生きてる頃は、大丈夫だったような気がするんだよな……」
 快斗は俯きながら小さな声でそう呟いた。
「それって……」
 志保は目を見開いた。
 父親が生きていた頃は大丈夫だったということは、それはもしかしたら父親の死に何か原因があるかもしれないということだ。あるいはその前後に。
 快斗にとってアレがトラウマだということは分かっている。出会った頃には既にそうだった。
 もしそうなら、快斗にとっては思い出したくもない出来事なのかもしれない。ならばそれを無理に思い出させようとするのは、やはりやめた方がいいのだろうかとも思う。
 そこまで思って、志保は話題を変えた。
「ところで、白馬君との時間は大丈夫なの?」
「え? ああ、大丈夫。ばあやさんに志保さんとこに行くって伝えて貰うようにしたから。それに携帯も持ってるし、何かあれば連絡入ると思うから」
「そう、ならいいけど。でも、私に確認取る前から、私のところに来るのが前提だったのね」
 呆れたように志保は言い放った。
「ごめん。だって、あいつと俺のことよく知ってるのって、志保さんと紅子くらいしかいないからさ」
 快斗は慌てたように両手を合わせた。
「いいえ、いいのよもう分かってるから」
 そう言いながらも、志保はやはり溜息を吐いてしまう。
 死ぬかもしれない危機を乗り越えて、共に手を取り合って組織と対戦してきた二人。その姿は、かつての小さな姿に戻っていた頃の自分と隣家の住人を思い出させる。ただ違うのは、自分たちが彼等程に想いを通わせるということが無かったということだ。
 確かに小さくなった彼と自分は、相棒といえるような存在ではあったのだろうと思うが、あくまでそこまでだ。
 しかし快斗と白馬は同性という壁を乗り越えて、互いの想いを重ね合った。
 そんな快斗を、どこかで微笑ましく見ている自分と、羨ましいと思っている自分がいて、時に遣る瀬無くなる。
 そこまで考えた時、快斗の携帯の呼び出し音が鳴った。
 慌てて携帯を取る快斗に、相手が白馬からなのだと知れる。
「うん、今志保さんとこ。……うん。……。分かった、じゃあ、30分後に駅前で待ってる」
 そう言って快斗は嬉しそうに携帯のスイッチを切った。
「彼から?」
「うん」
 嬉しそうに頷く快斗に、箱に目を落とした志保は右手を頬に当てて快斗に尋ねた。
「で、30分後に待ち合わせなら、この残ったケーキはどうすればいいのかしら?」
「明日くらいまでなら冷蔵庫に入れておけば大丈夫でしょう? 明日は阿笠博士と約束してるからその時のおやつ!」
「……分かったわ。それまで博士に分からないように仕舞っておくわ」
「そうして。じゃあ俺行くね」
「気を付けて。白馬君によろしくね」
「分かってる。また明日」
 そう言って快斗は風のように去っていった。
「全く、白馬君、快斗君を甘やかし過ぎよ、遅れるだけでこんなにケーキを買い与えるなんて」
 まだ箱に半分程残っているケーキを、さてどうやって今夜一晩阿笠の目から隠し通そうかと考えながら、志保は今日何度目になるか分からない溜息を零した。

── Fine




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