Un amant




 深夜遅く、志保の部屋の窓辺のカーテンが揺れた。
 閉めていたはずの窓のカーテンが揺れたことで、志保は思わずそちらを見やる。そこには、志保が思い描いたとおりの影があった。
「そういつもいつも遅くまで起きてらっしゃるのは感心しませんね、お嬢さん」
 言いながら、影が月明かりを後ろに志保の部屋の中に入ってくる。
「貴方を待っていたのよ。今夜もきっと来るだろうと思って」
「嬉しいことを仰って下さる」
 影が微笑んだのが志保には分かった。
 部屋の明かりの中、その影の姿は鮮明なものとなった。
 シルクハット、片眼鏡、白いスーツとマント、全身白づくめの、怪盗。
 ICPOは彼に1412というシークレットNo.をつけた。そこから日本のある推理作家がKIDと呼び、それが日本での彼の通称となっている。
 日本警察を子供のように手玉に取る、確保不能の大怪盗、平成のアルセーヌ・ルパン── 彼の通り名は幾つもある。
 だが彼の正体を知る者は、ほんの一握りだ。彼の助手たる老人と、赤の魔女、そして自分。
 探偵を自称する者たちですら、彼の正体も目的も、何も知り得てはいない。彼等は獲物を盗んでは返すを繰り返すこの怪盗を、愉快犯と捉えているに過ぎない。実態は大きく違うのに。
「その様子だと、今夜も仕事は成功したみたいね。でも同時に失敗だった」
「そのとおりです、志保さん」
 KIDは志保に近付くと彼女の右手を取り、その甲に軽く口づけを落とした。
「今宵の姫君もまた、私が探し求める物とは異なりました」
 酷く残念そうにKIDはそう口にした。
 KIDが狙うのは確かにビッグジュエルがその殆どだが、彼が真に狙うのは、裏の世界で“パンドラ”と呼ばれる唯一つの宝石。それ以外は、たとえどれ程値打ちのある宝石であろうと、彼にとってはただの宝石(いし)に過ぎない。そしてそれが見つからない限り、KIDがその白い衣装を脱ぐことは決してないだろう。
 1日でも早くその宝石を見つけ出してほしいと志保は願う。そうすれば、KIDは夜のその姿を捨てて、昼間のどこにでもいる一人の男性に戻れる。自分が毒薬の作用によって子供の姿になってしまってから、彼の協力もあって解毒剤を開発し元の姿に戻れたように、彼にも早く元の姿に戻って欲しいと切に願う。
 けれどその一方で、こうしてKIDは仕事のたびに志保の前に姿を現す。無事を知らせるために。彼と同様“パンドラ”を狙う犯罪組織は彼の命も狙っているから、彼が志保の元を訪れる度に、無事だったことに志保は安堵する。
「待っていて、今お茶を淹れるわ」
 志保はKIDから離れて部屋の片隅に置かれているポッドと紅茶のセットを取り出して、KIDと自分のために紅茶を淹れる。自分はストレートで、そして甘い物好きのKIDのものにはミルクたっぷりのミルクティを。
 それを部屋の中央に置かれたテーブルに乗せ、KIDと向かい合って、志保にとっての至福の一時を過ごす。
「今夜も、彼、いた?」
 紅茶を口にしながら、志保はKIDに尋ねた。
 彼、とは志保が住まう阿笠邸の隣に住人である工藤新一のことだ。
「いらっしゃいましたよ、性懲りもなく」
 苦笑を浮かべながらKIDは答える。
 マスコミから東の高校生探偵、名探偵と持て囃される新一は、KIDには毎回毎回逃げられてばかりだ。
 KIDが宝石を返すために逃げられて捕まえるところまではいっていないものの、天下の怪盗KIDが盗みをし損ねたということで新一の名声は上がっている。
 しかし実際のところは、目的の宝石ではないから返しているだけであって、KIDが本気になればたかが一高校生の探偵ごっこに付き合うことなどありはしない。けれど本人もマスコミも、そして被害者はもちろん、警察もそんなこととは知らずに新一を持ち上げる。
 KID本人は、新一を探偵だと認めたことは一度としてないのだが。彼が新一を「探偵君」と呼ぶのは、揶揄を込めてのものだ。それを本人たちだけが分かっていない。
「彼等は?」
 志保が今度はKIDを狙う組織の者たちが現れたかを聞く。それが志保にとって何よりも重大な問題だからだ。
「いいえ、今宵は現れませんでした」
「本当に?」
 KIDは頷いた。けれどこの優しい怪盗は、自分に心配を掛けまいと平気で嘘を吐くことがあるから、どこまでその言葉を信用していいか、正直志保には分からない。ただ、現在の状況からKIDの無事を確信し安心することしかできない。
「ところで明日の日曜ですが、既に何かご予定が入っていたりしますか?」
 唐突にKIDが志保に尋ねてきた。
「明日?」
 志保は小首を傾げてから明日の予定を思い返してみる。
「特になかったと思うけど」
「では、もし宜しければ私にお付き合い願えませんか? 国立美術館で、阿修羅像展が催されているのですが、そのチケットを入手することができまして。物が物だけに、大層な混雑になることが予想されますが、如何かと」
「人混みは正直苦手だわ」
 志保のその答えに、KIDは落胆したように肩を落とした。
「そうですか。それは残念ですね」
「でも、たまには昼間の貴方とデートというのも捨てがたいわね」
 続けられた志保の言葉にKIDは顔を上げた。
「それでは、明日、朝食を終えられた頃を見計らってお迎えに参ります」
 嬉しそうにKIDが答えた。
 その様に志保はKIDに向けて優しい眼差しを送る。本来まだ高校生という表の姿を持つ彼と、昼間一緒に出掛けるということは滅多にあることではない。普段の彼は幼馴染と行動を共にしていることが多いようだが、こうして何かあると志保を誘ってくれる。それが志保にとっては、自分が彼にとって特別な存在なのだということを改めて自覚させることになる。そしてそれをとても嬉しく思う自分がいることに、志保はもちろん気付いていた。
 KIDの正体を探偵たちを出し抜いて知った時から、その優越感は志保の中にあった。
 必死にKIDを追いかける探偵たちが知らぬところで、自分はそのKIDとの逢瀬を繰り返しているのだから。
「では時刻も時刻ですし、今宵はもうこれで失礼いたします」
「ええ」
 志保の返事を合図にしたかのように二人は立ち上がった。
「ではまた明日」
 そう告げて、KIDは志保の頬に軽く唇を寄せた。くすぐったそうにそれを受けた志保はそれに返すように、KIDが片眼鏡をしているのとは反対側の頬に、背伸びをして軽く口づけた。
 そうして互いに一瞬ともとれる抱擁を交わした後、KIDはやって来た時と同様に、窓から去っていった。



 翌日、阿笠と朝食を摂って一息入れていた頃、玄関のチャイムが鳴った。
 彼だ、と思った志保はすかさず玄関に向かった。KIDではない昼間の彼を出迎えるために。

── Fine




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