誰かのため




 俺は、基本的に「誰かのため」、あるいは「何かのため」という言葉は信じない。それが「皆のため」となればなおさらだ。
 そういったことが全くない、とは言わない。ある特定の個に対して、分かりやすい例を挙げるなら、親が子のために、あるいは成長して大人になった子が年老いた親のために、などといった場合だ。
 しかし往々にして、誰かの、何かのためにといった、特定の個をあげられないもの、ただ、皆、という場合は信用できない。皆、などという曖昧なことでは、それが誰を、何をさすのか分からないからだ。第一、皆という場合、その皆とは、単純に解釈するなら全ての人間ということになるが、そのようなことはありえない。何故なら、人という者は、その置かれた立場、状況や状態によって、それぞれに求める物が異なり、必ずしも同じ物とは限らないのだから。だから、皆、ということはありえようはずがないのだ。
 たとえば、ユーフェミアが周囲に対して何の根回しもなく、唐突に公表した“行政特区日本”だが、ユーフェミアは「(日本人とブリタニア人双方の)皆のため」と口にしたが、結果はともかくとして、仮に彼女が構想した通りに成立したとして、果たしてそれは成功しただろうか。このエリア11には、現時点で、かつて日本だったこの国を侵略戦争で征服して入植してきたブリタニア人、そしてそのブリタニアに、どのような理由からであれ、恭順した名誉ブリタニア人、そして名誉となることを選ばず、たとえナンバーズ、イレブンと呼ばれ、ブリタニア人からさげすまれようとも、日本人であろうとした者たちの3種類の人間が存在する。しかし、ユーフェミアが提唱した特区が成立すれば、そこに特区に入り、イレブンではなく、日本人と呼ばれる者たちが新たに加わる。つまり、この一つのエリアに4つの人種が混在するのだ。
 まず、特区は日本人とブリタニア人が理解しあうための場所だというが、果たして職務として特区に差し向けられた者以外に、自らの意思で特区に入るブリタニア人がいるだろうか。外では認められている優遇を捨て、それまで見下していたナンバーズとしてイレブンと呼ばれていた日本人のための場所に。仮にいたとして、外で受けていた優遇措置を()くして、無事に過ごせるだろうか。日本人のための場所となれば、日本人が此処は自分たちのための場所だと、逆に自分たちと同じ位置に落ちてきたブリタニア人を逆に差別する可能性は決して否定しきれない。つまるところ、それは持てる者として、持たずにいる人々に対する施しだ。つまり上から下への施しであり、それができるのはユーフェミアが皇女であるからだ。ましてやユーフェミア自身は、構想を述べるだけで何もせず、全て臣下たる官僚任せ。構想を立てたなら、それを実行するために自ら動くのが本来あるべき形ではないのか。副総督という立場にある皇女だから策だけ出せばいい、それで済むなどという簡単なものではない。結局は自己満足に過ぎないと思うのだ。そう、ユーフェミア自身が俺に対して口にしたように、自分が俺やナナリーと共にあるための、そのための方策。結局は俺たちのことやイレブンのことを真実、本気で考えてのことではなく、自分の考えは正しいという、単なる独善でしかないと。本気で俺たち兄妹のことを考えたなら、決してそのような策が出てこようはずがないのだ。俺たちに対して一言もなく、そんな策を出すということは、俺たちの立場を何ら理解していないということでもある。イレブンのためという考えが全く無かったと、そこまでは思わない。それでもそれは持つ者の優越感からのものだ。たとえ本人にその自覚が無くとも。
 また、別の問題もある。特区の設立には、ブリタニア人の多くの血税が使われている。それが自分たちブリタニア人のためのものであったら、増税を、血税を使われることにさほど問題は起きなかっただろうが、自分たちブリタニア人のためではなく、ナンバーズのために使われると分かっていて、彼らに対して何も思わずにいられるだろうか。それを行動に移さずにいることができるだろうか。特区に入って“日本人”の名を取り戻した者、そして特区に入らず、あるいは入ることができずにイレブンのままの者と、同じ民族でありながら、2種類に分かれることになる。名誉となった者も含めれば3種類だが、この場合、特区に入ったかどうかで区別するなら2種類でいいだろう。そのイレブンのままの者たちに対して、ブリタニア人が恨みつらみを晴らすように、その思いが行動としてイレブンに向かないと言い切ることができるだろうか。
 そのような簡単に想像できることに全く思い至らない者に、そのような政策とはとても言えない政策、いや、愚策を、上司に上申することなく身勝手に公言する者に、為政者たる資格などないと思えてならない。結局、ユーフェミアは特区に限らず、ただ己の考えは正しいと、間違ってはいないと、誰もが認めてくれると思い、その結果がどのようになるかなどという事を、犠牲者が出ることもあるのだということを想像することもできず、独善的に行動するのだ。そこから導き出せるのは、ユーフェミアは理想主義者、思想家であって、決して為政者とはなりえない存在だということだ。
 それはまたスザクにも言える。スザクは名誉となり、更には軍人となって、ブリタニアの中に入り、その中で力をつけて、ブリタニアという国を内から変えると、それが正しい方法なのだと事あるごとに、ゼロを批判しつつそうのたまっているが、絶対専制君主制というブリタニアの制度を考えれば、皇族、いや、それ以前にブリタニア人ですらないスザクにはそのような事は決してできない。自分がそうすることが首相であった父を殺して日本の敗戦という自体を招いた自分の責任だと思っているようだが、それはとんだ間違いだ。国力の差を考えれば、もとより日本がブリタニアに勝利することなど無理な話であったし、かつての日本は、首相が死んだだけで国家がどうにかなるような、そんな簡単な制度ではなかった。ましてや、スザクが正しいと考えている日本人のための方法は不可能な事であるし、それ以前に、スザクの言う方法はあくまでブリタニアの属国であることに変わりはなく、日本人が真に望んでいるブリタニアからの独立とはほど遠い。スザクは自分の考えのみで、彼が日本人のためと思って口にしている事は、全く意味をなさない。何より、スザクが自分の思っている事をなそうとした場合、それができるまで、日本人には何もせずに待てということであり、そうした場合、イレブンと呼ばれている現在の日本人は、ブリタニア人から虐げられたまま、死んでいけと言っているも同然であり、自分以外の者の考えを何も考慮していない。現状のブリタニアの在り方を考えれば、決して実現する事などできない、スザクの身勝手な独善に過ぎないのだ。そしてスザクはその事に全く気付いていない。
 そして、それは俺自身についても言えることだと、今、冷静になって振り返って考えればそう思う。
 母が殺され、妹のナナリーが身体障害を抱えた身となって以降、俺はナナリーのために生きてきた。ナナリーを守り続けてきた。だが、それは決してナナリーのためにはならなかったのだ。俺がナナリーのため、と思ってやってきたことは、結局はナナリーの自主性を奪い、彼女が自分で考えるということを奪ったのだ。
 俺はナナリーのために生きてきたが、それは、ナナリーを守り、そのために行動することで、どうにか生きてきたのだ。そう、実父であるブリタニア皇帝シャルルに言われた一言、「生きていない」という言葉に対し、ナナリーの世話をし、守っていくことで、それを自分が生きる理由としていたのだと、今ならそう考えることができる。それはこれから行おうとしていることもだ。スザクがCの世界で全てが終わった後も俺に対して言い続けた「ユフィの仇」という一言。その仇を討たせてやるということで契約を交わし、ゼロ・レクイエムという計画を立て、それはもうすぐ終盤を迎える。それだけを取り上げれば、スザクのため、スザクにユフィの仇をとらせてやるため、とも取れるだろう。そしてまた、ナナリーと、虐殺皇女という汚名を着せらて死んだユフィの望んだ世界を作り出すため。それは全く無いとは言わない。それが叶えば何よりだと思う。しかしその一方で、いかに俺自身に、俺一人に全ての悪を集めて殺させることで、死ぬことで、これまでの悪の連鎖を断ち切るなどと言ったところで、それができるのは一時の事だろうと思っている。にもかかわらず、ゼロとなったスザクにそれを実行させるのは、結局は俺が生きていたという証を残すためなのではないかと思うのだ。そう、たとえどのような悪名に塗れようとも、俺という存在は、人々の記憶に、そして記録に残る。それは何よりも俺が存在したという事の証明になる。父に、スザクにすら否定された「生きていない」「存在そのものが間違っている」という言葉を翻す事ができる。それが俺がこの計画を立てた一番の理由なのではないかと、今になってそう考えることができるのだ。
 そう考えていくと、つまるところ、「誰かのため」「何かのため」というのは、結局は「自分のため」でしかないのではないかと。

── The End




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