阿頼耶識(あらやしき)




 神聖ブリタニア帝国の第99代皇帝となって執務を執っているルルーシュは、執務の間、一息入れている時に、ふと、いまさらなことではあるが先帝シャルルとその第5皇妃マリアンヌ、つまりは両親の行おうとしていた“ラグナレクの接続”のことを考え、以前に読んだことのある本に書かれていた内容を思い起こしていた。





 人の感覚には、眼耳鼻舌身(げんにびぜっしん)という五感が、そして第六感である「()」が存在している。
 しかし仏教では、その上に第七感の「末那識(まなしき)」を、そしてさらに第八感の「阿頼耶識(あらやしき)」を置く。
 仏教── 唯識論を近代医学に喩えることはほとんど意味をなさないが、あえて小異を無視して置き換えれば「末那識」は「染色体」に、「阿頼耶識」は「DNA」になるだろう。つまり我々は、この「阿頼耶識」である「DNA」によって生を営んでいる理屈になる。「識」の存在があるからこそ、我々の生命が今ここにある。
 そのように「識」は、太古から人々の体内に存在し、形を変えつつ、今も延々と生き続けていることになる。まさに「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」だ。
 またこの状況は、蝋燭の炎にも喩えられる。
 炎は一刹那たりとも同じ形状を保っていない。とすれば「そこに炎は存在している」と言えるのだろうか。
 だが、もちろん現実的に、炎はどの瞬間にも存在している。一定の形はないが、確実にそこにある。これが「識」だ。
 また同時に、炎が揺らげば、そこには必ず影ができる。光と影との両輪を以て真の炎、「識」と呼ぶべきなのだ。
 ところが現在。
 人々は光ばかりに目を奪われて、影の存在を忘れてしまった。
 いや、それどころか、炎の存在すらも失念しているのではないか。
 自分たちに「生」を与えてくれている光り輝く炎と、それに表裏一体となって存在している深い暗黒の影。
 人間はいつしか、形状ある物のみを認め、五感によって認識できない物は存在しないと言い切る傲岸な生き物になってしまった。そしてその思考は、自分一人の力によってこの世界に立っているのだという不遜な驕りと、瞬時に直結する──





 これを思い出した時、ルルーシュはシャルルのことを考えた。
 人の集合無意識を“神”と呼び、それを殺して新しい世界を、嘘のない、人の意識が一つになった、誰もが意識を共有することができる世界を創り出そうとしていたシャルルには、少なくとも、自分一人の力によってこの世界に立っているのだという驕りはなかっただろう。彼が殺そうとしていた“神”、すなわち、人の集合無意識が存在するから、人間には個が存在すると考えていたのだからそう言えるだろうと思う。
 しかしそれを“殺す”という考えを持つということは、やはり別の意味での驕りではなかったか。それは人間(ひと)の世の(ことわり)を壊すことと言えるのだから。個を()くした者を人間とは呼べない、とルルーシュは思う。
 そしてまたこうも思う。シャルルたちが“神”と呼んでいた“人の集合無意識”とは、仏教でいう第七感、第八感の“識”のことであり、思い出した文章を仮に正しいとするならば、それを殺すということは人の意識を共有することではなく、その存在そのものを消すことになるのではないかと。つまり“ラグナレクの接続”とは、単に“神殺し”は、シャルルたちの望んでいたような意識の共有などではなく、この世界に存在する生命体全てを消し去ることに繋がるのではないかと。“ラグナレクの接続”という“神殺し”が行われたならば、そこには地球という大地── 惑星── が残るだけで、形ある生き物は何も存在しなくなり、形のない“識”のみになることであり、ひいてはそれは“識”のみでの存在は不可能であり、結局は“識”を含めて全ての生命体の死に繋がることだったのではないかと。
 これはあくまで仮説の域を出るものではないが、そういった可能性も有り得たのではないかと思えるのだ。
 シャルルたちが“神”と呼んだCの世界にある人の集合無意識を、実際に彼らがどこまで理解していたか分からないし、C.C.にとてそれは言えるのではないだろうか。
 少なくとも、やはり意識の共有というのは個としての存在の否定であり、それはある意味、個々の精神の死を意味していたのではないか。
 そう考えれば、やはりシャルルたちが行おうとしていたことは傲岸な驕り以外のなにものでもなく、それを未然に防いだのは正しかったのだろうと思えるのだ。

── The End




【INDEX】



高田崇史氏著書 「神の時空 ─三輪の山祗─」(講談社)から一部引用