三行半




 その日、国会の質疑を終えて首相官邸に戻った扇を出迎えのは、妻の千草ではなかった。
「千草は? 何処かに出掛けたのか、こんな時間に? それとも具合を悪くでもしているのか?」
 扇を出迎えた、公邸に務める年配の女性は顔を反らした。
「?」
 不思議に思いながらも、扇は鞄を秘書の一人に預け、プライベート空間である奥に足を進めた。
 いつもなら、たとえ出迎えには出なくても居間にいるはずの、扇の妻である千草はそこにはいなかった。当然生まれて間もない子供の姿もない。
 訝しみながら、寝室で休んでいるのかもしれないとそちらへ足を向け掛けた扇は、テーブルの上に置かれた封筒に気が付いた。
 何だろう、そう思いつつ封筒を手に取り、中身を出した。
 唖然とした。
 封筒の中から出てきたのは、離婚届だった。しかも既に千草の名が署名され判まで押されている。
「馬鹿なっ! 千草、何処にいるんだ、千草!」
 大声を張り上げながら、扇はあちこちの部屋の扉を開けては妻の千草の姿を探した。しかし何処にもその姿はなく、一旦寝室に戻ってクローゼットをあさってみれば、千草と、そして生まれて間もない子供の荷物は殆ど消えていた。
「何で、千草……。一体何があったっていうんだ」
 扇には見当がつかなかった。自分たち夫婦は上手くいっていたはずだ。子供も無事に生まれ、自分はこの合衆国日本の初代首相となって、自分たちの未来は明るく開けていたはずだ、それが何故こんなことに、と扇はここ数日の千草の様子を思い返してみた。
 しかし扇が思い出した限り、千草に変わった様子は見えなかった。離婚届を置いて出て行かれるようなことには、もちろん心当たりはない。



 幼子と共に首相官邸を出た千草ことヴィレッタ・ヌゥは、本来のヴィレッタの名でとあるホテルにチェック・インしていた。
 子供が無事に生まれてから、ふとした拍子に、ヴィレッタはかつて扇と知り合ってからのことを思い出すようになっていた。
 そして気が付いたのだ、記憶を()くしていた自分に扇がしていたこと、したことを。
 記憶を失くしたヴィレッタに、外は危険だと、頼れるのは自分だけだと思い込ませられて部屋に閉じ込められていた。当時は不思議には思わなかったが、今になってよく考えてみれば不思議なことだ。
 扇は自分を医者にも見せなかった。そして隠しカメラで監視していた。
 やがてヴィレッタは扇の優しさに絆されるように関係を持ったが、それは果たして許される行為だったと言えるのだろうか。
 扇に、当時の己の記憶がないという不安感にうまく付け込まれただけのような気がする。
 ブラック・リベリオンの際、失った記憶を取り戻したヴィレッタは扇を撃ち、黒の騎士団の本部を混乱させ、その終息に功ありとして男爵に叙せられた。
 それから一年余り、再会した扇は、まるで撃たれたことが嘘だったかのように、自分を、当時扇が名づけた千草と呼ん出来た。
 再会した当初だけだったならそれも仕方なかっただろう。
 だが、自分は千草ではなく、ヴィレッタ・ヌゥという名前があったのに、扇はヴィレッタとは呼ばずにいつまでも千草と呼び続けた。まるでヴィレッタとしての自分は存在しないかのように、ひたすら千草と呼び続けた。
 それでも、妊娠して無事に出産するまでは周囲に対しても、そして自分自身に対しても余裕がなかった。それはルルーシュ率いるブリタニア軍との戦いと、それに続く様々な出来事に混乱していたためともいえる。
 しかし無事に子供が生まれ、育児という大変さはあるものの、それ以外の余裕が出来た時に考えてしまったのだ。
 確かに今は日本に帰化して千草という名前になっているが、再会後もずっと自分を千草と呼び続けた扇は何だったのかと。
 まるでヴィレッタとしての己の存在を否定されていたかのように思えてしまった。いや、実際、扇の中ではヴィレッタは自分が名付けた千草以外の何者でもなく、ヴィレッタ・ヌゥという存在はなかったのだと。
 そこまで考えたら、扇の傍にいられなくなってしまった。そして離婚届を置いて、子供を連れ、荷物を持って飛び出してしまっていた。
 早まった行為をしてしまったのかもしれない、とも思う。
 しかしその早まった行為とはどちらを指すのだろう。扇と関係を持ったことか、それとも離婚届を置いて官邸を飛び出したことか。
 今のヴィレッタには前者だった。
 冷静になって思い返せば、扇と過ごした月日はヴィレッタ・ヌゥとしての自分の人格を否定されたような日々、つまりそれは自分にとって偽りの日々だったとしか思えてならないのだから。



 それから数日、扇は暇さえあれば、いや、無ければ無いなりに己の立場、地位を利用して千草を捜し回った。
 かつての仲間に連絡を取ってみたし、離婚届はフェイクで、実は元ブリタニア人である千草は誘拐されたのではないかと警察に捜査を依頼してもみた。
 しかし一向に千草は出てこない。もちろん、二人の間に出来たまだ生まれて間もない幼子も。
 だがそれはある意味当然のことかもしれない。扇が捜していたのは“千草”であって、“ヴィレッタ”ではなかったのだから。ヴィレッタとして捜していれば、とうに見つけられていただろうに。
 ヴィレッタはとうに日本を出国し、生まれ育ったブリタニアに向かう飛行機の中にいた。
 扇が離婚届をどう処理しようがヴィレッタは構わなかった。扇に必要なのは“千草”であって“ヴィレッタ”ではなかったのだから。
 そうして扇はわけも分からぬまま、千草を失った失意の日々を送る。自分の何が千草を、千草であるヴィレッタを追いつめたのかを知ろうともせずに。

── The End




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