ある日の朝、目覚めたナナリーの目に飛び込ん出来たのは、見知らぬ天井だった。
昨夜の自分は、ブリタニアの代表公邸のプライベートスペースにある自室でベッドに入ったはずだったのに、今目に映る天井は、自室のものとは明らかに異なっていた。上半身を起こして部屋を見回せば、そこは自室ではなかった。自室よりもずっと狭く、机とテーブル、作り付けのクローゼット、そして車椅子が一つ置かれているだけで、余分な物が何一つない部屋。けれど何処か馴染みのあるその部屋に、ここは一体、とナナリーは考える。
そうして考えているうちに軽いノックの音がした。
「ナナリー様、お目覚めですか?」
そう声を掛けて一人のメイド服の女性が部屋に入って来た。
聞き覚えのある声。それは以前アッシュフォード学園にいた時に自分の世話をしてくれていた、篠崎咲世子という名誉ブリタニア人のものだった。
「咲世子、さん……?」
「はい」
恐る恐る名を呼ぶナナリーに一体どうしたのかと思いつつ近寄った咲世子は、ナナリーの目が開いていることに驚いた。
「ナナリー様、お目が……!」
「ここは、ここはアッシュフォード学園なのですか!?」
「もちろんです、ナナリー様。それよりもお目が見えるようになられたのですか?」
ナナリーは自分の問い掛けに対する咲世子の答えに驚き、目を見開いた。
ここがアッシュフォード学園ならば、今は一体いつなのだ、どうして自分はアッシュフォード学園にいるのだと。そしてまた、兄であるルルーシュが亡くなった後、姿を消した咲世子がどうしてここにいるのかと。
「咲世子さん、今は何年ですか……?」
「? 皇歴2017年ですよ、何を仰っているんですか?」
何をそんなことを、と疑問に思いながらも、咲世子は掛けられた問いに答えを返した。
「ではゼロは、ゼロはどうしています?」
「ゼロ? ゼロとは何者ですか?」
訝しげな顔をして問い返す咲世子に、ならば兄はまだゼロにはなっていないのかと、ゼロの登場以前なのかとナナリーは思い、ある意味一安心した。
自分は記憶を持ったまま時を遡ったのだと、その時のナナリーは既に結論を出していた。
そして、それならば兄がゼロになるのを、あんな不幸な別れ方をすることは無いのだと思った。
「とにかくミレイ様にナナリー様の目が見えるようになったことをご報告いたしませんと」
そう告げた咲世子の言葉にナナリーは訝しんだ。報告するなら、ミレイより先に兄のルルーシュではないかと。
「お、お兄さまは? お兄さまはどうしてらっしゃるんです? いらっしゃらないんですか?」
「お兄さま? ナナリー様にはお兄さまがいらっしゃるんですか?」
「え? 何を言ってるんです、ルルーシュお兄さまのことです、私のたった一人の大切な……」
「ナナリー様こそ何を仰っておられるんですか。ナナリー様はお一人で、お兄さまなどいらっしゃらないはずです。それとも私がお仕えするようになる前にはいらっしゃったんですか?」
ナナリーは何か夢でも見ているのかと思いながら、咲世子はナナリーに言葉を掛けた。
「え? お兄さまが、いない……?」
ではこの世界は、今自分がいる世界は何処なのだ。兄であるルルーシュがいない世界などというものがどうして存在するのか。ナナリーは軽い恐慌をきたした。
そんなナナリーの様子を見てとった咲世子は、とにかく朝食の仕度も出来ていることから、食事をして落ち着かれるようにとナナリーに声を掛け、身仕度を手伝った。
ナナリーは咲世子の促しに僅かに落ち着きをとり戻し、とにかく情報を集めなければと考えた。
その日ナナリーが知ったのは、母であるマリアンヌの死後、日本に送られたのは自分一人であり、マリアンヌには皇子は、つまりナナリーの男兄弟は存在しなかったこと。ブリタニアの日本侵攻のどさくさに紛れて、自分はマリアンヌの後見だったアッシュフォード家の当主ルーベンの手配で救い出され、今はルーベンの設立したアッシュフォード学園に、ルーベンの孫娘であるミレイの手配した咲世子の世話を受けながら中等部に通っていること。
ナナリーの覚えている世界との差は、ルルーシュの存在だけだった。ルルーシュだけが存在しない。
どうして、何故お兄さまがいないの? お兄さまがいないなら、それがどんな世界であろうと時を遡った意味など、自分には何一つないというのに。そう思いながら、その夜はベッドに横になった。枕を涙で濡らしながら。
翌日、朝食の席で何気なくTVを見ていると、そこに忘れようのない顔が映し出されていた。
アナウンサーが伝える。
『第11皇子ルルーシュ・エル・ブリタニア殿下は、予定通り本日の昼の便でこのエリアにご到着なさいます。その後は、第3皇子クロヴィス総督を補佐する副総督として……』
ルルーシュ・エル・ブリタニア? エル? エルは第2皇子であるシュナイゼルのミドルネームだ。何故それをルルーシュが、忘れ得ぬ自分の兄が名乗っているのか?
この世界は何かが違う、自分の覚えている世界ではない、とナナリーはいまさらながらに思った。
その日の昼、TVでアナウンスされていたようにエリア11のトウキョウ租界の空港に、ルルーシュ・エル・ブリタニアが降り立った。
ルルーシュは名目としては総督の補佐たる副総督としての着任だが、実態は違う。シュナイゼルは一向に衛星エリアになれないエリア11の状態に不満を漏らし、その責任者たる第3皇子クロヴィスを更迭すべく、その粗探しのために己の懐刀ともいえる実弟のルルーシュを差し向けたのである。そこにはクロヴィスを追い落とすことが出来れば、第11皇子であり、第2皇子である自分の弟とはいえ、第3皇子のクロヴィスよりも低いルルーシュの皇位継承順位を上げることが出来る、との考えもあってのことであった。シュナイゼルがそこまで考えているとはルルーシュは知らないが、兄であるシュナイゼルの言うこともあり、とにかくクロヴィスを追い落とすべく、エリア11に降り立ったのだ。
夕方近くなって、どうにか挨拶周りも済ませて一段落したルルーシュの元に、一つの報告が上がってきた。
「何事だ?」
「はい、今は亡き第5皇妃マリアンヌ様の娘だとして、ナナリー・ヴィ・ブリタニアと名乗る少女がルルーシュ副総督閣下に面会を求めて、受付に来ているというのです」
「ナナリー・ヴィ・ブリタニア? 閃光のマリアンヌの娘が? 生きていたのか。七年前に死んだとの報告があったが。それが何故今頃私に会いたいなどと。第一本当にマリアンヌ様の娘なのか?」
「以前、ヴィ家に近かった者が見た限りではナナリー皇女殿下に違いはなさそうだとのことでしたが、如何なさいますか?」
「危険がないようなら会ってやろう」
「イエス、ユア・ハイネス」
副官が執務室を出た後、ルルーシュはかつてのヴィ家の情報を集めた。
ナナリー・ヴィ・ブリタニア、閃光のマリアンヌと謳われた第5皇妃の一人娘。マリアンヌが殺害された折り、自身も足に傷を負い、歩くことも出来なくなり、また、ショックから目を閉ざして、弱者として、七年前に緊張関係にあった日本に人質として送られ、日本侵攻の際に死んだとされた第6皇女。そんな皇女が何故今頃になって、それも自分に会いに来たというのか。本国にいた頃もさして交流があったというわけではないのにと、ルルーシュは不思議がった。
やがて車椅子に乗った少女が、ルルーシュの副官に案内されて執務室に入って来た。
その両目は薄い青色の色を宿して開いていた。
「お兄さま! 私です、ナナリーです。どんなにお兄さまにお会いしたかったか」
勢い込んでそう告げるナナリーに、ルルーシュは柳眉を顰めた。
「嬉しいことを言ってくれるが、そなたが本当にマリアンヌ様の娘だったとしても、本国にいた時もさして交流のなかった私に、それ程に会いたかったという理由はなんだ?」
「えっ? 覚えていらっしゃらないんですか、お兄さま! 私です、お兄さまのたった一人の妹のナナリーです!」
車椅子から身を乗り出すようにして告げるナナリーに、ルルーシュは益々眉を顰める。
「生憎だが、私に妹はいない。母の異なる妹ならたくさんいるがね。君もその中の一人に過ぎない。私の同母の兄弟はシュナイゼル兄上だけだよ」
「そんな……っ!」
「君が今頃になってどうして私に会いに来る気になったのかは分からないが、せっかくだから一つ忠告してあげよう。君は確かに父上の寵妃だったマリアンヌ様の娘かもしれない。けれど今のブリタニア、しかも皇室において、君という存在は、後ろ盾のない、しかも身体障害を抱える弱者でしかありえない。今までどうやって君が生き延びてきたのかは知らないが、これからもその状態が続けることが出来るなら、皇室に戻ろうなどという馬鹿な考えは捨てて、今まで通りに過ごしたほうがいい。それが君のためだ」
「お兄さまっ!!」
ナナリーの瞳が悲しみに染まる。
しかしルルーシュにとって、ナナリー・ヴィ・ブリタニアは、先に自身が言った通り、数多いる異母兄弟姉妹のうちの一人にすぎないのだ。必要以上に関わりを持つ存在ではないし、持ちたいとも思わない。ましてや彼女に、自分が彼女の後ろ盾か何かになる存在だなどと思われているならなおさらだ。自分にとって大切な兄弟は、たった一人の実の兄であるシュナイゼルだけで、他はその兄のために追い落とす存在でしかないのだから。
「他に用が無いのならさっさと引き取ってもらえるかな。これで私も忙しい身なのでね」
「お兄さま……」
ルルーシュはナナリーの瞳が涙に潤むのを認めたが、だからといって手を差し伸べてやる謂れはない。副官にさっさと引き取らせろと視線で促すと、ルルーシュは手元のPCの電源を入れた。とりあえず何の害にもなりはしないだろうが、生きていた第6皇女ナナリーの存在をシュナイゼルに知らせるために。
無理矢理ルルーシュの執務室から引き出されたナナリーは、そのまま政庁の外まで出され、一人途方に暮れた。
あの兄── ルルーシュ── は、自分の記憶の中の兄とは違うのだと、この世界は自分の知っている世界とは違うのだと改めて思い知らされて。そしてそれならば、一体何のために自分は他の世界のもう一人の自分の記憶を持ったまま時を遡ったのかと思いながら。
── The End
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