Experiment




 彼は、独りだった。
 両親は既に亡く、残されたのは、広大な屋敷と莫大な遺産だけ。
 そして彼は、少しばかり変わっていた。
 人間嫌いで、友人と呼べるような存在はいなかった。
 一人家に引きこもって、ほとんど外出することなく、他の人間と会うこともなく、ただ、自分の好きなこと、やりたいことだけに没頭していた。
 資産には、彼自身はさして興味を抱いてはいなかった。
 自分が好きなことをやって暮らしていけるだけのものがあればそれでいいと思っていたから、資産の運用や管理は専門家に任せきりで、定期的に届けられる報告書に目を通すだけだった。
 食料など必要なものは定期的に届けられていたし、他に欲しいものができても、電話1本、あるいは、インターネットで注文するなどして事足りた。支払いは銀行口座からの引き落としだったし、彼はただそれらが届けられるのを待つだけでよかったのだ。
 そんな生活環境に、彼は十分に満足していたし、困るようなこともなかった。
 むしろ何に煩わされることなく自分一人で好きに過ごせる状況は、彼にとってはなにものにも変えがたいものだった。



 そんなある日、彼はふと閃いたことがあった。
 そしてそれを実行に移してみるだけの頭脳、知識を彼は持っていたし、費用の捻出もたやすいことだった。実際にそれが可能なことであるか否かは別にして。
 彼はそれを実行してみることにした。
 まずは業者を呼んで離れを改装した。
 工事の間、多少騒がしくはあったが、それもやりたいことをやるために自分から依頼したことなので耐えられた。
 うるさいという思いがある一方で、工事が終わるのが楽しみでもあった。
 工事が終わり、それとは別に注文しているものが届けば、自分の閃きを現実のものにするための行動に着手できるのだから。
 やがて業者から示されていた予定とおりに工事は終了し、それを待っていたかのように注文していた特注の品をはじめとした様々な品物が彼の元へ届けられた。
 彼はワクワクしながら、それらを改装が終了したばかりの離れの部屋に運び入れて設置した。
 そして遂に彼はその実験に着手した。





 それは初め、小さな一つの点にしか見えなかった。透明で大きな、多少楕円形気味の球体のほぼ中央にポツンと浮かぶ黒い点。
 やがて日が経つにつれてその黒い点は目に見えて大きくなり、さらにその中に白く輝くものが浮かび始めた。
 そして日ごとにそれは大きくなり、透明だった球体は、真っ黒と言ってもいいほどに闇色に染まっていた。透かし見えていた球体の向こう側は、全く見えなくなった。
 白く輝くものも、形を取り始めていた。
 しかしよく見ると、その白いものは一つではなかった。一つ一つの小さな点の集合体であり、よくよく見れば、色は必ずしも白一辺倒ではなく、その輝きもそれぞれに異なっている。
 そしてその集合体もまた、成長しているといっても差し支えないように、球体の中に占める割合を大きくしていっていた。



 何も知らない人間がその球体の中身の写真を見せられたら、その人間はこう思っただろう。
 これはいったいどこの星雲だい? と。
 それは、まさしく宇宙に浮かぶ一つの渦状星雲の写真にしか見えなかった。
 そう、彼は離れに用意した自分の実験室の中に、小さな宇宙を、銀河を創り上げたのだ。
 彼は実験の成果に満足した。
 彼の創り上げたその宇宙の中が、銀河の中がどのようになっているのか、それは創造者たる彼にも分からなかった。しかし、彼にとっての興味は銀河系── 渦状星雲── を創り上げることだけであって、その内部に何があるのか、そこで何が行われているのかまでは彼は興味はなかった。
 そこに生命と呼べるものが誕生しているかどうかさえ彼には知りようがなかったし、それは彼の興味の範囲外のことだったからだ。
 そしてとある日──
 彼は球体に一つの小さなヒビを見つけた。
 それは本当にまだ小さなものではあったが、時が経てば経つほどに、どんどん大きくなっていくだろうことは明らかだった。
 きっと球体の強度が自分が考えていたよりも弱かったのだ。あるいは内部からかかる負荷が、予想以上に大きかったのかもしれない。そう彼は思った。
 せっかく創り上げたものをそんなことで失うのはいやだった。
 銀河を創り上げたのは実験の成果で、実験の結果としては彼は既に満足していたが、その完成した銀河は、彼にとっては実験の成果であると同時に、一つの芸術作品とも言えたからだ。
 彼は考え、そうして一つの結論を出した。
 入れ物である球体が壊れかけているのなら、新しい球体を作って中身をそちらへ移せばいいと。
 彼は大急ぎで新しい球体を注文した。もちろん、今のものよりももっと強度の強いものを。
 そうしてやがて届けられた球体を、彼は実験室に運び込んで設置した。
 次にしたことは、同じように宇宙をそこに存在させることができるか、ということの確認だった。それができなければ、せっかくの新しい球体も意味がないのだ。
 すぐに確認はとれた。
 既に一度成功させていることだから、そう手間はかからなかったのだ。
 しかしそこで彼は困ってしまった。
 古い球体の中身を新しい球体に移し変える──
 それはいい。問題はその方法だ。
 いったいどうやれば無事に中身を移しかえることができるのか、そこまで考えていなかったことに遅ればせながら気がついた。
 古い球体のヒビはだんだん大きくなってきているし、一つだけではなく、他にもいくつかの新しいヒビが数箇所にできていた。
 あまり時間がない。
 しかしよい考えが浮かばないままに、彼は気分を変えよう、気分が変われば、何かよい案が浮かぶかもしれないと、久しぶりに実験室をあとにして、外に出た。



 翌日──
 なかなかよい案が浮かばないままに、それでも球体の状態が気になって実験室に戻った彼が目にしたものは、新しい球体の中に浮かぶ、明らかに古いほうの球体の中にあったはずの渦上星雲だった。
 彼は頸を捻った。
 それは当然だろう、彼は何もした覚えがなかったのだから。
 不思議に思いながら、たくさんのヒビのはいった古い球体に歩み寄ると、下に、小さな卵のような形をしたものが落ちていた。
 彼はそれを取り出すために古い球体を壊しにかかった。ヒビが入っていたおかげだろうか、それは思ったよりも簡単に壊れてくれた。
 いったいこれは何だろう?
 そう思いながら、彼はそれを手にとった。
 大きさは鶉の卵ほど、だろうか。だが比重はもっと大きいようで、とても重かった。何かがぎっしりと詰まっているような、そんな感じがした。
 彼は考えた。
 これを、予備にと用意したもう一つの新しい別の球体に入れたらどうなるだろうかと。
 彼は壊した古い球体の欠片を片付けると、その予備の球体をそこに設置しなおした。もちろん、その中には古い球体の中に取り残されたようにして落ちていたものを入れて。
 彼が創り上げた渦上星雲は、どのようにしてそれがなされたのかは分からないが、新しい球体の中にきちんと納まっていたので、彼の興味は既にその卵のようなものに移っていた。
 しかし彼にはそれが何かも分かりようがなかったから、何をどうしたらいいのか、何も考えが浮かばなかった。ただ、見ているだけだった。
 ところが、そうして見つめている彼の目の前で、それはまさしく卵が孵化するかのように、ヒビが入って割れ始め、中から黒い霧のようなものが出始めた。その霧の中には、時々小さく煌く粒のようなものも見受けられた。
 そして最初の宇宙を創り上げた時のように、またたく間に球体は闇に覆われ、いつしか、新しい渦状星雲が出来上がっていた。
 彼は唖然とした。
 自分は何もしていないのに、ただ見ていただけだったのに、いったい何が起こったのだろうと。


◇  ◇  ◇



 ある夫婦が、その屋敷に下見に訪れた。
 その屋敷の持ち主だった老人が死に、けれど老人には身寄りがいなかったので、屋敷は市のものとなり、売りに出されたのだ。
 一通り見て回ったあと、離れの存在に気づいて、夫婦は現在屋敷を管理している職員に言ってその離れのほうも見せてもらうことにした。
 その職員も、離れに足を踏み入れるのは初めてだった。本邸のほうに重きをおいていたので、離れのことはあまり意識していなかったのだ。
 夫婦に乞われるままに離れのある一室に入って、彼らは息を呑んだ。
 なぜなら、そこには在るのは、宇宙、だったのだから。

── das Ende




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